医学博士でピアニスト、音楽療法士の板東浩です。
誰もが、心に残る好きな曲や、ふと懐かしさを覚える音楽をお持ちではないでしょうか。
ある音楽を耳にした瞬間、過去の情景や感情が、驚くほど鮮明に脳裏によみがえることがあります。
あなたにも、そんな一曲があるかもしれません。
とくに青春時代は、感性が鋭く、記憶が深く刻まれる時期です。
その頃の経験と結びついた音楽は、時間が経っても色あせることなく、
心の奥深いところに静かに存在し続けます。
今回は、こうした「音楽と記憶」の関係について、医学的な視点からひも解いていきます。
学生時代の曲を聴くと一瞬で当時の情景が蘇る

人には、嗅覚・味覚・聴覚・視覚・触覚という五感が備わっています。
このうち、二つ以上の感覚が同時に呼び覚まされる現象を「共感覚」と呼びます。
たとえば、懐かしい音楽を耳にしたとき、
「誰と、どこで、何をしていたのか」
「そのとき、どんな空気や匂いだったのか」
そんな記憶が、感情とともに立ち上がってくることがあります。
学生時代によく聴いていた曲が流れた瞬間、
教室の匂い、夕暮れの色、友人との会話の温度…
そうした感覚が一気によみがえり、胸の奥がふっと温かくなる。
多くの方が経験する身近な現象ですが、これは単なる「懐かしさ」ではありません。
脳の深い部分にあるしくみが、大きく関わっています。
この現象の鍵を握るのが、海馬(hippocampus)と扁桃体(amygdala)です。
いずれも大脳の内側に位置し、記憶と感情をつかさどる重要な器官です。


海馬は、日々の出来事を整理し、「記憶」として保存する役割を担います。
語源はタツノオトシゴで、その形がよく似ていることから名づけられました。
いわば、脳の記録係として、個人的な体験を蓄積しています。
一方、扁桃体は、喜びや不安、懐かしさといった感情を瞬時に処理する、
感情反応の中枢(ハブ)です。
音楽をきっかけに感情が一気に動くのは、この扁桃体が強く反応するためです。
音楽は、記憶を司る海馬と、感情を司る扁桃体の両方に同時に働きかけます。
だからこそ、学生時代の一曲は、時間を超えて、当時の情景と感情を
一瞬で呼び戻す力を持っているのです。
「海馬」と「扁桃体」が音と感情を結びつける

音楽が心を揺さぶるのはなぜでしょうか。
それは、海馬と扁桃体という二つの脳の部位が、密接に連動して働いているためです。
あるメロディーが耳に入ると、まず聴覚野で音の情報が分析されます。
するとほぼ同時に、扁桃体が「この音にどのような感情が結びついているか」を瞬時に判断します。
学生時代に楽しい体験とともに聴いていた曲であれば、扁桃体はそのポジティブな感情記憶を呼び起こし、同時に海馬が、そのときの情景や状況をセットで再生します。
その結果、脳内では過去の体験が再び立ち上がり、現在の感情にも大きく影響します。
これが、音楽によって一瞬で「あの頃」に戻ったように感じる理由です。
海馬は、新しい出来事を長期記憶へと変換する「記憶の固定」に深く関わっています。
そのため、ストレスや加齢の影響を受けやすく、海馬の萎縮は記憶力や認知機能の低下と関連します。
一方、扁桃体はより原始的な反応系に属し、恐怖や驚きだけでなく、喜びや安心感にも強く反応します。
懐かしい音楽を聴いたときに、心が落ち着いたり不安が和らいだりするのは、
扁桃体が「安全で心地よい記憶」を呼び覚まし、自律神経の働きに影響を与えるためです。

医療現場では認知症ケアに音楽療法が適用

音楽には大きな力が内在しており、医療の現場でもさまざまに活用されてきました。
とくに認知症ケアにおいては、音楽療法が重要なアプローチとして知られています。
その人が若い頃によく聴いていた音楽を用いることで、
表情が驚くほどやわらぎ、会話が自然に引き出されることがあります。
これは「回想療法」と呼ばれる方法です。
認知症では、記憶を司る海馬の機能が低下し、新しい出来事を記憶として定着させることが難しくなります。
一方で、若い頃に形成された長期記憶は比較的保たれている場合が多く、
それと結びついた音楽体験は、扁桃体も反応しやすいという特徴があります。
懐かしい音楽は、こうした「残されている回路」に強く働きかけ、
安心感や自尊心を呼び戻す手助けをしてくれます。
音楽が人の心を穏やかにし、対話を生み出す背景には、この脳の特性があるのです。
音楽は単なる娯楽ではありません。
記憶と感情という、人間の根幹に関わる領域をつなぐ媒介者でもあります。
耳から入った音は、海馬と扁桃体のネットワークを通じて、
私たち一人ひとりの「心の歴史」を静かに呼び覚まします。
懐かしい曲を聴いて心が安らぐのは、
脳が大切な記憶を思い出し、今の自分を支えようとする自然な営みなのかもしれません。
心を整えたいと感じたとき、かつて好きだった音楽をそっと再生してみる。
それは、科学的にも理にかなった心身のセルフケアの一つと言えるでしょう。
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おわりに
実は、今回お話ししてきた海馬(記憶)と扁桃体(感情)は、
みなさまの日々の心理状態や健康にも深く影響しています。
職場などさまざまなストレスによって扁桃体が恐怖や不安を感じ続けると、
ストレスホルモンであるコルチゾールの分泌が高まり、
その影響で海馬の機能が低下したり、損なわれやすくなることが報告されています。
昼間はストレスフルな環境に身を置くことが多くても、
夜には音楽を聴く、瞑想を行う、集中できる趣味に没頭するなど、
無心になれる環境をそれぞれが意識的に工夫してつくり出してほしいと思います。
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